売上0円から「ざぎんでしーすー」までの道のり

IT関連

今日のブログは前回のブログの続きになる。(前回のブログはこちらから)前回は2021年に起業し、仕事が無くて途方に暮れていた時、大きな会社の研修の仕事の依頼が入ったというところまでを話した。

新入社員研修だからマナー研修などかなと思っていたら、その仕事は新入社員へのJavaプログラミング研修のサブ講師だった。Javaというのはプログラミング言語のひとつで、特にクライアント/サーバモデルのWebアプリケーションで使用されている最も人気の高いプログラミング言語の1つである。

しかし、自分がプログラミングをしていたのは1980年から1990年代にかけてであり、20年以上のブランクがある。プログラミングを知っている人なら聞いたことがあるかもしれないが、使っていた言語はアセンブラとCOBOL。いわば古文・漢文のような言語である。だから、いくら研修講師の経験があるとはいえ、見た事も触ったこともないプログラミング言語を教えると言うのは無謀にもほどがある。

しかしながら、当時仕事はまったくない無収入。しかも相手は超有名企業である。ここで実績をつくれば次につながる。もちろんリピートオーダーももらえるかもしれない。お金も大事だが、スタートアップ企業にとって何よりも欲しいのは実績である。

なので、はい、やります!と間に入った研修会社に即答してしまった。そしてここからが試練の道である。

プログラミングとの出会い

私が初めてプログラミングに出会ったのは昭和63年であった。

実は私は最初プログラミングが嫌いであった。自分は早稲田大学の文系の学科を卒業していたので、第一生命に入社した時にシステム部に配属と聞いて大きく落胆した。学生の自分にとってはアニメの世界でのイメージしかなく、システム部といえば理科系の仕事。白衣を着てぼさぼさの髪の毛、山奥の研究所みたいなところでにずっとこもってコンピュータに向かって何やらわけのわからない記号を打っている。そんな想像をしてしまうほど、昭和時代はまだシステムがいまほど一般的はなかった。

だから絶対に自分には向いていない仕事だろうと考え、営業など他部署に移りたい、そう思って入社早々異動届も出した。

同じようにシステム部は自分には向いていないと落胆している人もいたが、多くは仕事だから仕方ないと割り切っていた。自分も研修もまったく興味を持てなかったが、やる気がないのに、なぜかプログラミングやシステム開発の才能はあったみたいである。研修中いつも居眠りばかりしていて、同期の中で一番研修態度が悪かったのに、ちゃんと課題を比較的早く終わっていたのである。

自分ではあまり記憶が無いのであるが、今でも友人に会うと言われるのが、講師が居眠りをしている僕を注意しようと、僕を起こし、この問題を解きなさいと言われたので、寝ぼけ眼で前にいき、黒板に回答を書いてまた席に戻って居眠りをしたけど、答えは全部合っていたというエピソードがある。

研修中寝ていた事のペナルティなのか、適性を買われてなのか、2年目にはなんと僕が研修講師として新入社員に教える立場になった。いくら先輩とはいえたかだか2年目。中にはプログラミングの経験もある人もいる。でも、研修講師の仕事は自分には合っていたし、非常に楽しかった。それから毎年プログラミング研修だけでなく、社会人のマナーなど、数多くの研修講師の仕事には携わることになった。

そんな経験もあったので、とにかく頑張ってみようと思い、この仕事を引き受ける事にした。

Java漬けの毎日に

Javaの研修は4月下旬から6月まで。依頼を受けてから研修のスタートまで残り2か月。いくら初心者とはいえ一流企業の社員。理科系の大学を出てプログラミングをマスターした人もいる。プロの講師として恥じないスキルを身につけなければならない。

そこでまずは書店にいき、Javaの本を買い集めた。あと20年以上経っているのでSQLの本やIT用語辞典なども買った。一番わかりやすかったのは、インプレス社の「スッキリわかるJava入門 」だった。

ただ、例えがロープレゲームの内容なので、実はゲームをやったことがない自分にとっては、勇者、回復、などの言葉がいまひとつぴんとこなかったが、それでも他の本よりは読みやすく、まずは5冊の本を読破し、練習問題もやった。

またJavaに関するサイトやYouTubeも片っ端から見た。そして、土日も含め毎日16時間以上、とにかくJavaに関する勉強をした。専用にPCも新しく購入した。

こうして研修を迎えることとなった。

無茶受けの結果

研修の初日はメインの先生の話を生徒と一緒に聞くことがほとんどだった。自分が勉強しながらしかもお金ももらえる。なんて良い仕事なのだろうかと感謝した。しかし、いつまでもそうはいかない。自分が生徒のサポートをするのが仕事なのだから自分も説明できるようにならなければならない。

朝は誰よりも早く出勤し予習をした。夜も誰よりも遅くまで、追い出されるまで残った。それどころか昼ご飯も食べる時間も無く勉強した。そして家に戻ってからも予習・復習に励んだ。

もちろん、質問に即答できずメインの先生にヘルプを頼んだこともあったが、そうした努力の甲斐もあってなんとか最後まで乗り切る事ができた。

最終日になって、メインの先生に、実はJavaの経験が無かったことを白状した。メインの先生は自分の年齢を見て、ベテランの割にはスキルが乏しいと感じていたようだが、「早く言ってくれたらよかったのに。逆に3か月でここまで覚えたら天才よ。」とお褒めの言葉をいただいた。

もちろん、こんな無茶受けは誰でもできるわけでもない。ただ、ビルゲイツやスティーブジョブスも同じような事をしている。

ゲイツはIBMから受けたOS開発の依頼について、まだできてもいないのにありますというような返事をして、では見せて欲しいと言われて、その日までの間徹夜で作業をし、当日に見せたとか。

ジョブスも在庫が全くないのにたくさんのPCの発注を受け、そこから納品までの間に死に物狂いで生産したとか。映画スティーブジョブスにもそんなシーンがある。

つまり、はったりをかまして無茶受けしたとしても、スタートアップの企業にはそんな時期が必要であり、死に物狂いでカバーすればそれは無茶受けにならず、大きな自信と実績になるということである。

嬉しい初売上、さあ「ざぎんでしーすーだ!」

前回も「サラーリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」などと書いてしまったが、おっさんゆえ死語が多いのはメンゴメンゴである。今時、銀座をザギン、六本木をギロッポンと呼んでいるかは知らないが、我々の年代はとんねるずの影響を受けている。ちなみに、私も学生時代に、ねるとん紅鯨団というとんねるずの番組に出ないかと言われた事もある。その時は恥ずかしくて断ってしまったが、今から思えばなんてもったいないことをしたんだと後悔している。

まあ、そんな話はさておき、会社の話に戻ろう。

会社の経営者はキャッシュフローを常に意識しなければならない。4月の実績でも5月請求で入金は6月である。当社はまだ規模が小さいから入金ベースで売上計上しているが、2,3,4,5月と4か月連続売上0円。

初売上は6月で26万円だった。もちろん会社は赤字であり、入社2年目の給与にも満たないが、初の売上である。

入金直後には、あまりの嬉しさに、銀座にお寿司を食べに行った。え、ザギンでシース―ですか?それは久兵衛ですか?それとも次郎ですか?と思った方、残念ながら不正解。

すみません、それは、東京の人ならだれもが知っている美登利寿司の銀座店。それも普通のランチコースで2000円ちょっと。はま寿司で2人で食事するか、一人でいってビール2杯飲んだくらいの料金なのだ。

ちなみに次郎には一度も行った事はないけど、二郎には数えきれないくらい行っている。

個人事業主からの脱却

稼働日数が少なかった4月と比べ、5月、6月と稼働日数も増え、また頑張ったおかげで他の会社からの依頼も増え売上は順調に伸びていった。しかし、その後売上が急減する。

それは、研修は春に集中することと、またリアルな研修と比べZOOMでの研修は、サブ講師の人数も削られてしまう。

いくら会社を設立したとはいえ、これでは個人事業主とまったく変わらない。そこで、人の採用を考える事にした。

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